2010年6月30日水曜日

安土宗論の事

 安土城下にある、金勝山・浄厳院(じょうごんいん)は
天正7年5月27日
法華宗と浄土宗が信長の仲介で、宗論が行われたことで知られている。

 浄土宗の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。
そこに法華宗の建部紹智と大脇伝介(伝内)が議論をふっかけたことから始まった宗論は、
安土、京都にも広がり、騒ぎが大きくなった。
信長の耳にも入り、あまり大袈裟にしないようにと両宗に伝えたが、法華宗は承知せず、
宗論をすることとなった。

 結局法華宗の負けで結論が出たが、一説によると信長は法華宗を快く思ってなかったため、
この機会を利用して法華宗を諌める画策をしたとか、他にも諸説があり、実際のところは??........

この宗論のことは 太田牛一著の、信長公記の第十二巻に書いている。


浄厳院門


右が本堂、左は鐘楼



浄厳院本堂。この本堂で宗論が行われた。









浄厳院楼門



手前は大脇伝内の人形。(安土宗論で出てくる大脇伝介と同一人と言われる)
この人形は、岐阜市歴史博物館の常設展の戦国ワンダーランドの、楽市楽座、塩屋&宿屋主人、
信長の家来として出てくるが、安土宗論の仕掛け人として信長に斬首される。

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