2010年7月19日月曜日

蛇がへの事

  比良城   蛇がへの事

 名古屋市西区比良に、佐々成政の父、成宗が築城したという比良城があった。
現在は光通寺になっているが、当時の比良城は
清州城を守る城と言われ、東西68m、南北72mで二重の濠に囲まれていたと言う。

その比良城から500メートルほど離れたところに蛇池(信長公記には=あまが池)があり、
戦国時代、この池に大蛇がいるのを村人が目撃したと言う噂を聞いた信長は、
自分で確かめようと池の水を抜こうとしたが、3割ほど抜けたところでそれ以上減らなくなった。
信長は業を煮やし「ならば水中に入って、信長が蛇を見付けよう」と言って
脇差を口にくわえて潜ったという。
「蛇など居らぬ」と言って水から上がり、水泳の達者な家来にも探させたが
結局蛇は見付からなかった。
信長は納得して清州城に帰ってしまった。


 蛇探しはそれだけで終わったが、危ない事があった。
この蛇騒動の後に信長は比良城をこの目で見ようと言いだしたが、
突然取り止めて、蛇池から清州城に帰ってしまった。

実は佐々氏が、信長に反逆すると言う風評が立っていて、信長に腹を切らせられると思い込み、
ならばということで、比良城では信長を暗殺しようと言う計画が練られていた。
しかし信長は、比良城に立ち寄らないで帰ってしまったので未遂に終わったと言う。

 大将と言うのは万事に気を付けて油断してはいけないと言うことである。

太田牛一著・信長公記 首巻第二十七に記述


比良城があったところ。
今は光通寺が建っている。






左の駐車スペースは、光通寺の駐車場。



蛇池神社



蛇池



2010年6月30日水曜日

安土宗論の事

 安土城下にある、金勝山・浄厳院(じょうごんいん)は
天正7年5月27日
法華宗と浄土宗が信長の仲介で、宗論が行われたことで知られている。

 浄土宗の霊誉玉念(れいよぎょくねん)という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。
そこに法華宗の建部紹智と大脇伝介(伝内)が議論をふっかけたことから始まった宗論は、
安土、京都にも広がり、騒ぎが大きくなった。
信長の耳にも入り、あまり大袈裟にしないようにと両宗に伝えたが、法華宗は承知せず、
宗論をすることとなった。

 結局法華宗の負けで結論が出たが、一説によると信長は法華宗を快く思ってなかったため、
この機会を利用して法華宗を諌める画策をしたとか、他にも諸説があり、実際のところは??........

この宗論のことは 太田牛一著の、信長公記の第十二巻に書いている。


浄厳院門


右が本堂、左は鐘楼



浄厳院本堂。この本堂で宗論が行われた。









浄厳院楼門



手前は大脇伝内の人形。(安土宗論で出てくる大脇伝介と同一人と言われる)
この人形は、岐阜市歴史博物館の常設展の戦国ワンダーランドの、楽市楽座、塩屋&宿屋主人、
信長の家来として出てくるが、安土宗論の仕掛け人として信長に斬首される。

2010年4月22日木曜日

金華山・松田尾砦

 岐阜の金華山は(旧名=稲葉山)市街地にあり、
国有林として保護されて、登山道以外は徘徊することを禁じられている。
許可者以外は好き勝手に歩くことは禁止されている。
山頂には岐阜城、リス村、展望レストランがあり、
ロープウエーで下の岐阜公園と結んでいる。

 山頂から少し下がったところに、昔の松田尾砦がある。
案内が無ければほとんど気が付かないところだが、
先日、金華山に詳しい人物に案内をしてもらって、
松田尾砦を研修という名目で見に行ってきた。
ん十年も近く住んでいながら、多分子供のころには
近くを登ったりしていたと思うが、そのような砦があると思っても見なかった。
今ではイノシシが相当数いることが確認されていて、田畑を荒らしているようです。

 松田尾砦は戦国時代に造られたと言うことは間違い無いが、
詳しい事はほとんど分からない。
とりあえず画像を載せるのでそれで勘弁願いたい。
詳しい事が分かれば、追加説明を加えるのでそれまでお待ち下さい。

尚、別の文献で同じようなことが出ているので、ここを参考にしてください。


地図上に松田尾砦が載っている。


山頂の岐阜城。


金華山の東、達目洞から見た岐阜城。
信長がここらあたりで鹿を78頭獲り、喜んだと言う古文書が見付かったと言う。


岐阜城第一天下の門。


この近くに松田尾砦に降りる場所がある。


かすかに道らしいものがあるが、落ち葉で滑るから注意して降りる。


倒木などがあるが、国有林なので自然のままにしてある。
多分落雷などで倒れたのであろう。何故か鏡モチが供えてあった。


ここら辺りから砦の一部分であろう。


平らな部分があり、砦の一部分である。


やはり倒木があるが砦の部分である。


ここも砦。


多分、当時積んだ遺構の石垣だろう。
かなり崩れかかっているが、これ以上崩れない様に処置をしてほしいね。


地図には土塁が残っているようだが、向こうに見える盛り土部分が土塁では??


帰りはそのまま降りて、登山道に降りてきた。


七曲り登山道に降りてきた。

2010年3月31日水曜日

春の岐阜城


桜と岐阜城のコラボを撮りたくて30日のお昼ごろ7曲りより登った。
今日は天気もよく天守閣の横手にある御嶽神社からは雪をかぶった御嶽山がよく見える。
岐阜城への登り道は幾つもあるが、御嶽神社横手の道は「瞑想の小路」と呼ばれ眼下に広がる
長良川を楽しみながら登れるコースとして好まれている。
360度見渡せば、濃尾平野には名古屋の高層ビル群や138タワー、木曽川が広がり、
関が原と伊吹山、鈴鹿山脈など、展望が楽しめる。

2010年2月15日月曜日

岐阜信長プロジェクト報告会

信長学プロジェクトによる
基調講演とシンポジウムが行われます。
岐阜市歴史博物館にて
3月22日午後1時30分~4時30分まで
定員200名
入場無料(先着順)
申し込みは℡058-268-0010
岐阜市歴史博物館
岐阜市大宮町2丁目18-1

2010年2月14日日曜日

航空写真で見てみよう

yahoo地図を利用してみると多少地形がわかるでしょうか

金華山周辺航空写真
 クリックしてください 
     

2010年2月12日金曜日

ちょっと昔の岐阜城

今の岐阜城は模擬城ですが・・・2代目です。
明治43年5月に初代の模擬城が建てられました。

初代長良橋の架け替えででた廃材を利用して、市民の労働奉仕により建てられたものだそうです。
木造トタン葺きで、3層3階、高さ15.15mでした。
初代岐阜模擬城の絵葉書が紹介されているサイトです。

現在建てられているものと違い、こじんまりしていますね。

白黒写真は昭和5年ごろだそうです。
昭和18年2月17日 早朝に失火のため焼失しました。当時を知る方の話を聞くと
燃え上がる岐阜城が自宅からよく見えたそうです。